長い冬も、やがていつか春になる
いよいよ隣の医者が立ち退く期限が一年後に迫ったある日、今まで見たこともない形相で妻が取り乱して叫んだ。
「もう、ガマンの限界!」
聞けば、隣の医者から、診療室の窓先を通る時は、
「必ず挨拶をしろ!」
と言われたらしい。
前にも書いたが、私の買った家は、一階が二十坪、二階が二十坪のほとんどサイコロのような家。それを真半分に区切って、左半分の一階十坪と二階十坪を耳鼻咽喉科の診療所に貸してあった。互いに前面道路に面して玄関、そして裏にそれぞれの勝手口がある。しかし、その勝手口と道路を継なぐ通路が、貸してある診療所側にあったので、我々は、自宅の勝手口から表の道路へ出るには、どうしても診療室になっている窓先を通らなければならない。
隣は、診療所ということもあり、昼間は、薬メーカーの営業マン達が、隣の勝手口から我が物顔で出入りする。勝手口の前が洗濯物干し場だった我が家は、干し方にまで神経を使っていた。ゴミ出しも、生ゴミ以外は勝手口を使わず、部屋を横断して玄関から外に出すなど遠慮を重ねていたのだ。
「今まで我慢して言わなんだけど」
口数の少ない私の母まで、堰を切ったように涙目で訴える。掃除のために通路を通っただけで、窓を開けて睨まれることが度々あったらしい。
契約書では、確かに「貸家」となっている。「家」は貸したが、土地」まで貸した覚えはない。もともと嫁姑の関係というのは古今東西強烈だが、逆に、その一致団結したすさまじい意思に背中を押され、私は改めて隣に抗議に出向いた。
声を荒げながらも、ふと弱気の虫が出る。二年の裁判を経て、立ち退きの猶予期間満了まで残り一年となっているのにこれ以上強く言い放って、あの裁判の和解案に影響しないだろうか。実に長かった。そう思うと、自然と「抗議」が「お願い」口調になってしまう。ああ、あの一致団結した嫁姑は、こんな私を見たら、どんなにか嘆くだろう。それにしても、どうして貸している大家の私がこんなにも弱腰にならねばならないのだろう。
この事件以来、一日のほとんどを自宅で過ごす妻は、出来る限り隣の医者や看護婦達と顔を合わせないよう、神経を使っているようだった。そして、ある日、遂に憔悴しきった顔でこう切り出した。
「お願い、あと一年。どこか別な所に住みたい」
その言葉の重さに押され、駅前不動産に頼んで賃貸物件を見て廻ることにした。
「借りよう。借りてしまえばこちらが強い」
私は呪文のように唱えていた。