スタッフ紹介
- 1951年
- 岐阜県可児市に生まれる。(かに座)
- 1974年
- 明治大学建築学部卒業
- 同年
- 英国ケンブリッジ ピットマンスクール留学
- 1976年
- 明治大学大学院建築工学研究科修了
- 同年
- ライベックス(株)入社
- 1986年
- ライベックス(株)常務取締役企画設計本部長就任
- 1988年
- クウェスト株式会社設立 , 現在に至る
可児義貴は「鮨」好きです。
鮨は江戸前、鮨は人。鮨は私の活力源。
ご趣味は?と聞かれると、「お鮨を食べることです。」と答えています。
はじめはネタの産地など、うんちくに凝ったのですが、最近ではどうでもよくなりました。
目の前で握られた鮨を、乾かぬうちに口にポンと放り込む。
ほんの一瞬ですが、私にとっては至福のひと時です。
江戸前の鮨には、握る前に何時間にも及ぶ隠れた仕事がしてあります。
夜遅くまで客の相手をして、早朝に築地に出向く。
「素材の仕入れは人任せに出来ないから。」
そんな真摯な仕事ぶりに惹かれて、こちらも体調を整えて出かけます。
「鮨は人だ。」とつくづく思う。
鮨の旨さは素材の良し悪しや旬もさることながら、握り手のこだわりや、客への気配り、目配りで決まるように思います。
一流の鮨職人の前ではうるさい注文は無用で、黙って任せておけば、いつも渾身の技量で旨い鮨を出してくれます。
私にとって江戸前鮨は、自らの創作意欲を喚起させてくれる活力源でもあるのです。
札幌すし善 すし処宮葉 次郎長 秋月 すし処ととや 喜よし 逸喜優 まね山 吉野鮨 すし仙 弥助 鮨さわ田 田吾作 すし勘 めくみ 乙女鮨 すし屋の丸 金太郎 与志喜 小笹寿し すし匠 與兵衛 佐々木 徳助 水谷 青木 安春計 神泉小笹 田中 広金 つく田 高勢 すぎた 喜楽 てる あらい 鮨処くに なんば いがらし 鶴八 はしもと 福元 おばな 恵三 まつもと 北野 ひろ喜 すし蓑 とみなか さがね
可児義貴は「車」好きです。
ジャガーを愛して30年、妻に支えられて30年。
自宅の狭い車庫に二台の車を所有しています。
それがジャガーとポルシェと言ったら、きっと車好きの人に「分別が無い」と笑われるに違いありません。
憧れのジャガーを購入した翌日に、最初に助手席に乗ってくれたのが現在の妻です。
あれから30年、幾多のドラマがありましたが、いつもこの車と妻が支えになってくれました。
気品に満ちたスタイルと水の上を滑るように走る感覚は今でも健在です。
二人の子供がいつの間にか成長し「ジャガーは狭い。」と文句を言うので、家族の為に安全で快適な車を捜しました。
国産車は故障も少なく燃費も良いのですが、どうも大量生産された道具のようで、運転中も心躍る高揚感がありません。
ポルシェのカイエンは、
秘めたパワーと素直なデザインが気に入りました。
これからは家族でいっぱい思い出作りの旅に出かけようと思います。
可児義貴は「旅行」好きです。
ひとりで、夫婦で、家族で・・・。
一番楽しみなのは「父と娘の二人旅」
それは大学一年生の夏、13日間の北海道一人旅から始まりました。
どこに行っても、見るもの聞くもの新鮮でハマリました。
それから三年間アルバイトに励み、当時では稀な海外旅行に飛び立ちました。
リュックを背負ったヨーロッパ100日間の一人旅です。
雨のサンミッシェル通りから始まった不安いっぱいの旅は、途中、パスポートをなくし、散々な目にあった試練の旅でしたが、多くのものを見て、多くのものを学び、多くの人に出会いました。
モロッコでは当時無名だった建築家の安藤忠雄と一緒に旅を続け、建築の分野で生きていく覚悟ができました。
バルセロナの友は、今でも親交が続いています。
結婚の条件、「年3回海外旅行、年4回の温泉旅行に連れて行く。」は、ほとんど守られていませんが、なんとか夫婦二人旅も続けています。
最近では、子供たちの方が忙しく、長期の休みがなかなかとれませんが、家族での旅行には全力を投入しています。
最近、「反抗期」とやらで、父と娘の二人旅が途切れています。
いつの日か娘が大人になったら、二人でパリのルーブル美術館を歩くのが夢です。
可児義貴は「建築」が好きです。
施主のためならエンヤコラ、職人のためならエンヤコラ。
白井晟一目指してエンヤコラ、生涯現役エンヤコラ。
中学校の図書館で、ふと目にしたF.L.ライト作の「落水荘」の写真が原点でした。
当時発売されたばかりのプレハブのミゼットハウスが私の勉強部屋でしたが、ある日突然、その部屋の中にクヌギの木が枝を広げていました。
裏山から切り出してきた部屋いっぱいのクヌギを見て、教師の父親は落胆したそうです。
列島改造論に沸く高度成長期に、競争率がダントツに高かった建築学部に進み、白井晟一作の「佐世保銀行 懐霄館」を見て衝撃が走りました。
今でも私が作品に、木と石を多用するのは、氏の影響です。
その後独立して、前途不安な時期に、ピッツバーグ近郊の「落水荘」に会いに行きました。
自然はそのままで美しいのですが、その場所は周囲の自然を凌駕して輝いて見えました。
この時、自然とともにある建築が理想となりました。
新しい仕事を依頼された時、現地に出向いて静かに立っていると、その場のあるべき姿が浮かんできます。
このイメージを持ち帰り、構想を練る時が最高の時です。
「作りだすこと」は人間の最も優れた才能だと思います。
私が新しい仕事を創造すると、それを具現化してくれる熟練の職人たちに感謝しながら、生涯この道を究めたい(QUEST)と思います。