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早春の京都にて

京都を代表する老舗旅館のひとつ、柊屋に宿泊する機会があった。
この旅館で恒例となっている「ひな祭りの祝膳」に、京都の山科区に住む知人から二十歳になったばかりの長女がお誘いを受け、同行したのだった。

江戸の末期から皇族方や多くの文人墨客を迎えた風情のある数寄屋造りの建物を隅々まで案内していただき、随所にちりばめられた匠の技を堪能して歩く。さりげなく置かれた書画や工芸品も見逃せない。宴のあと、ほろ酔い気分で高野槙の浴槽に浸かりながら、苔庭の中に幕末の志士たちの姿を重ねてみる。もしや、あの竜馬もこの辺りで。

翌朝、新設された京都迎賓館に行ってみた。感想は、予想に反して華美ではなかったこと。最近の著名な建築家がそうであるように、ここを訪れる誰をも「アッ」と言わせる奇策を並べ立てる技術も予算も十分にあったはず。しかし、その佇まいは控えめで、ひたすら伝統文化の踏襲と匠たちの繊細な仕事を現代技術を使って少しばかり大胆に構成しているかのように見える。中庭に置かれた装置(オブジェ)も、役目を終えた鴨川の橋脚など過去の遺構たちである。伝統を大切に守り続ける柊屋に通じるものがあった。

この建物の設計監理は、国内最大手のN設計である。そして、そのリーダーを務めた中村光男さんは、過去に二度、仕事でご一緒したことがある。最初の出会いは、以前の勤め先からN設計に依頼した基本案が期待に届かず意気消沈した私に、営業部長が「ではエースを出します」と。そして現れたのが中村さんだった。再提出された模型は秀逸で、もちろん即日採用に至り八王子市に現存する。(ちなみに工事費は百億円を超えている)
二度目は、氏が名古屋支店長時代にホテルの仕事で偶然にも再会し、意気投合。残念ながら、建築は実現しなかったが、終始友好的で紳士な対応が心地よかったことを覚えている。そして後に社長を務められている。

見学時間が過ぎ、スリッパを戻す時にふと空調設備の吹き出し口がどこにも見当たらないことに気付いた。現代設備の装置がまったく表に現れていないのである。見えないところに仕事がしてあった。
そうか、設計依頼を受けた中村チームの目指したものは、絢爛豪華さではなく「日本の心」だったのかもしれない。「われわれ日本人とは、こういうものだ」と。車寄せから建物を振り返ると、温厚で控えめな中村さんの姿が重なった。

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