(余談)ある深夜番組で
ところで、トイレと言えばふと思い出す秘話がある。
私は学生の頃、ある旅行会社を通して、留学を兼ねた欧州旅行をしたことがある。もう三十数年も前のことで、まだその当時は海外旅行も盛んではなかった時代である。
無事帰国したあと、その旅行会社の担当から懇願されて、あるラジオ番組にゲストとして出演することとなった。早い話、その会社のピーアールなのだが。
「可児君、声がとても素敵だから」
と女性担当者におだてられ、芸能人気分で港区の「ラジオ関東」のあるビルに向かった。もちろん生放送だから、出演は午前0時を過ぎていた。番組名は「男達の夜かな」だったと記憶している。
本番直前になって、司会の広川太一郎氏から
「深夜だからオモシロイ話にしてね」
と耳打ちされ、急に旅の途中のエピソードを披露したのが命取りだった。緊張から頭の中がまとまらないまま番組が始まり、ふと我に帰るとモロッコでのトイレの話になっていた。
「ホテルのトイレに入ったら紙がないんですよ」
「ほう、それでどうしたの、君」
「代わりに水の入った壷が置いてありまして、迷った結果その水で洗いました」
「それは右手、それとも左」
「そこまで覚えていませんが、多分左手で」
「あらダメだよ、君。右手でなくちゃ。イスラムでは左は聖なる手で、汚いものに触っちゃいけないんだょ。最近の学生はそんなことも知らないの」
「アレ、済みません。理科系なもんで」
「ところで、日本でも平安時代の貴族は手で洗っていたんだよねェ」
「ソレ知っています。厠の下に小川が流れていたりして。聞くところ、縄にまたいで拭いていたとか」
「アレ君、なかなか博学じゃないの」
「ハァ、建築学科の学生なんで、建物のことは少々、ハイ」
とまあ、こんなやり取りが30分も続き、今で思えば赤面する内容ばかりだった。
帰り際、司会の広川さんに「お疲れ」と肩をポンと叩かれ、意気揚々と帰宅したまではよかったが、翌日、その担当者の女性から電話があり
「人選を間違えました」
と言われた時はさすがにショックだった。
今にして思えば、このモロッコで世界的に著名になった建築家の安藤忠雄氏と偶然出会い、一週間いっしょに寝食を供にしたことでも番組で話せば良かったが、当時安藤さんはほとんど無名で、建築科の私でさえ、顔と名前が一致しなかった。
モロッコでの移動はもっぱらバスとタクシー。タンジールからフェズまで、砂漠が何時間も延々と続く。途中、居眠り中の安藤さんの頭がカクンカクンと傾く度に、体育会系の私は齢が先輩というだけで、あの大きな頭を後ろから支え続けていた。
「ウー、腕がしびれる。だがここで放せば首が折れるかも」
現在彼が世界的に活躍できるのは、何を隠そう、この私があの時、身を呈してムチ打ち症を防いだからに他ならない。