住み始めて一年後のある出来事
最初の一年が過ぎて二度目の夏の訪れが間近い頃、一階のアパートに住む親父の様態が目に見えて悪化した。妻のケイコが頻繁に大学病院に連れて行く。診断では経過観察に終始するが、素人目にも痩せ細っていく過程が速過ぎる。
古家の建て替えが叶わず、老夫婦二人で近くにアパートを借りて暮らし始めた頃、突然、胃がんが見つかった。ステージ三とは末期がんに近い。すぐに手術をして胃の大半を摘出したが、アレアレ、見る見る回復。一年後には食も太くなり、以前の体重に戻って周囲は驚いた。
「あれから五年。もう大丈夫」
その矢先だった。
私が学生となってから一度も欠かしたことのない、お盆の時期の帰省。今年もその時がすぐそこに来ている。親父にとっては、多分最後だろうと覚悟して再入院を勧めた。
入院が決まった前夜、アパートの一室で、寡黙な男同士が言葉少なに語り明かした。思えば、二人でじっくり話が出来たのは、この時が最初で最後だった。
「ヨシキ、こんなに大きな家作って、将来、大丈夫か」
「それより自分のこと心配しなさいよ」
「新しい家にも一年住めた。十分幸せだ。もう思い残すことは何もない」
「点滴打って、もう一度田舎に行くぞ」
「・・・この窓を少し開けると、ええ風が入るでなあ」
病院から危篤の知らせが届いたのは数日経ってからだったが、臨終には間に合わなかった。
「直前まで、冗談を言ってみえましたよ」
看護婦さんの言葉に救われた気がした。
「あなたもつくづく運のいい人ね。新築が一年遅れていたら、お爺ちゃん、アパートで一生終えたかもよ」
妻の言葉に神様の存在を信じたくなった。